1965.12.23 今でも鶴橋にある日赤病院で生まれる。

その後、地元、瓢箪山の六万寺で過ごし、縄手南小学校・縄手中学と進む。

それなりによく遊んで、少し悪いこともやったりしながらも、あんまり勉強はしなくても成績はまぁまぁで、とくに「頑張った」という記憶のないまま「大阪府立布施高校」に進学。

小学校では地元の子供会のソフトボールをしてたものの、中学では帰宅部として「何かをやった!」という記憶がないものの、高校では「バレーボール部」に入部。

顧問の北島先生にしごかれた記憶しかないけど、僕にとって小中高を通じて唯一覚えてる先生でもう一回会ってみたいけど

現役で大学へ行くのは少数派で、だいたい浪人してから「関関同立」を目指すというのが標準だったので多数派の波にのまれて自然と浪人生活を満喫。麻雀やパチンコに明け暮れ、遊んでばっかり。だいたい何かを自分で切り開くタイプ出なかったので、1年の浪人生活では全く勉強が足りず、2年目の浪人生活へ突入。

さすがに2年目になると、遊ぶ友達も減り、1年目よりかは勉強したような記憶が。

で、関西大学・法学部に入学。

大学に入っても、勉強をした記憶がない。

当時はやってた(?)「学生ツアー」のスタッフになり、自分たちでチラシをまいて集客し、自分たちで現地で添乗員として働きだす。

夏は「与論島」「沖縄」など。冬は「斑尾」「志賀高原」「木島平」でスキー三昧。

この時の「与論島」で、店長(奥様)と出会う。

こんな感じで、学校に行くより、スタッフとして行動する時間ばかり増える。ただ、他の皆は大学での勉強もしてたので、結局僕は楽な方にしか行かない中途半端なヤツでした。

当然親からも見切られ、学費の納入を止められ、中退になるのか除籍になったのかよくわからないまま。

1990頃

本町の現金問屋で働きだす。

小さなグンゼの代理店。朝の掃除から接客から倉庫の整理もすべてが仕事。

挨拶もろくに出来なかった僕にそこの社長には辛抱強く教えてもらった。

ただ、その仕事中に、店長(奥様)とバッタリ出会って付き合いだす。

まわりの友達にも恵まれ、「働く」という事を真面目にやりだす。

週に4~5回は本町駅の居酒屋で飲む(毎晩飲むという習慣はこのころに完成したのかな)。

3年ほど本町でお世話になり、親父が経営する寝具問屋に入る。

この会社はじいちゃん(明治生まれ)が起業したもので、僕で3代目。

僕が仕事しだしたとき、じいちゃんはすでに他界してましたが、遊びまくってる頃、じいちゃんに小遣いを無心しまくってた恩返しができないまま。。。